三中1977年卒同窓会サイトのブログです。
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長女が高校時代はブラスバンド部、今は大学で交響楽団に入りトロンボーンを演奏しておりまして。
私自身も足かけ4年ほど、親バカよろしく演奏会に出かけてます。 それまではクラッシック音楽なんて全く縁のない生活でしたが、「のだめカンタービレ」の流行りと相まって、親娘でちょっとしたクラッシックブーム。 今日は、貝塚市文化会館「コスモスシアター」に大阪フィルハーモニーオーケストラがやってくるとあって、演奏会の鑑賞に行ってきました。 今までは学生の素人演奏会(失礼!)しか聴いたことがなかったので、やっぱプロは違いますわ! 我々のはるか前方の観客席に水間の同級生 I さんご夫婦発見!! 遠すぎてごあいさつできませんでしたが、 I さんは時々このブログをチェックしてくれていると聞いています。 PR 大阪市周辺のだんじり祭りでは、一番の賑わいを見せるのが杭全神社で、9台の地車が集まります。 昨夜は宵々宮で、片側2車線の南港通を4車線とも完全封鎖。沿道はギッシリと見物客で埋まっているのですが、何故かテキヤさんは皆無です。 泉州だんじり祭りのルーツとも言われる大阪のだんじりですが、上地車と下地車、夏祭りと秋祭り、夜と昼、あらゆる面で我々の常識と違う祭りです。 地車本体を見ると、上地車でしかも後梃子はありません。担い棒で方向転換します。 ブレーキはありませんが、下地車でいう前梃子は前後に備えているようで、前進でも後退でも急停止します。 曳き綱は昼間のこども用で、メインの夜は曳き綱なし、基本は担い棒を押して曳行します。 曳き手(押し手?)たちは、実際に曳行の原動力となっているのは地車周りの10人足らずでしょう。 主屋根と小屋根には金髪や赤毛のスリムなイケメン5~6人、地車の前後にも2人ずつが乗り込み、曳行中は囃子に合わせて踊ります。 ここまでがいわゆる青年団でしょうか?地車周りの取り巻きを含めても平均して50人くらい? 圧巻は、地車の後ろに続く法被姿の婦女子たち! 地区によって差はありますが、多い地区では優に100人超!! 法被に地下足袋の見慣れた祭り装束ですが、扇子片手に囃子に合わせて踊りながら一団となって地車を追いかけます。(まるでマハラジャのお立ち台?) 実に統率が取れているうえに、青年団顔負けのパワフルさです。 ある意味この娘たちがこの祭りの主役なのかも知れません。 ほとんどが高校生かと見受けられますが、小中学生らしき子もチラホラ。中にはどうみてもアラフォー世代という法被姿のマダムも混ざってますが、娘の監視役といったところでしょうか? 47年間、地車祭りといえば、泉州の片田舎の遣り回しを中心とした祭りしか知りませんでしたが、すげえカルチャーショックでした。 平野郷のド派手で楽しそうな地車祭りと比べると、我々の祭りはケガ人続出、建造物破損、曳き手はまるで苦行難行のような・・・。 それでもやっぱり、地元の祭りが一番ええのには違いありませんが。 今朝は数年ぶりに町内の同級生たちと参加させていただきました。 清児、清名台の各町会のほか、橋本団地やサンシティマンションの方々も参加されていたようです。 大阪府岸和田土木事務所の職員さんや貝塚市役所の職員さんも大勢来ていました。総勢200名(公称)だそうです。 以前は、ミ そういえば、数年前に参加した頃は清児橋下だけでなく、三中校区の上流各近木川流域で同じ清掃活動が実施されていましたが、今でもやってるんかなあ・・・? 日頃は川原に人が入ることがないため、雑草や笹が生い茂っていることと、流れゆく水量の少なさが気にかかります。 日差しがきつくて風もなく、めっちゃ蒸し暑かったです。
先日、山手地区公民館で、(知る人ぞ知る?)民の謡代表で篠笛奏者の森田玲氏の講演を聴く機会がありました。
その際に購入した森田氏の著書に古代の岸和田市域についての記述があり、「山直、八木、掃守、木島の四郷にほぼ相当する。」とされていました。 えっ?木島が岸和田の主な郷? 確かに、戦国時代以降は岸和田藩領でしたが、土生郷や麻生郷を押しのけてなぜ木島? さっそく、森田氏にメールで問い合わせたところ、現木島校区(木島谷)は古代木島郷の一部に過ぎず、大古は現在の土生郷・麻生郷・木島谷の全域が木島郷とされていたそうです。 そういえば、水道路の土生と尾生の境界あたりに数年前まで貝塚市の飛地であった現岸和田市の清児新町があります。 かつて清児の先人が開墾した清児の飛地と聞いていましたが、この清児新町あたりが古代木島郷の北端と考えるとつじつまが合いますねぇ。 その後、貝塚市教育委員会発行の「かいづか文化財だより」に、次の記事を発見しました。 木島谷は古くは木島郷あるいは木島庄と呼ばれていました。 平安時代に作られた『和名類従抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物によると、和泉郡十郷の一つとして、木島郷の名前が見られます。 その範囲は、津田川流域と近木川の上・中流域と海岸部からなり、現在の貝塚市のうち旧木島村・旧麻生郷村に、旧西葛城村の一部であった木積(こつみ)や馬場、三ヶ山(みかやま)といった村々と、現在の岸和田市にある土生(はぶ)・河合におよぶ広大な地域に及んでいました。 森田氏の説を裏付けるもので、妙に納得しました。 私たちが生まれ育った木島谷は、祭祀(森稲荷神社の氏地)や水利(近木川を元にする木島湯)の共同体として、昔から水間・三ツ松・森・名越・清児の五ケ村であるとの先入観を持っていました。 ですが、歴史上の政治的支配の枠組みとして、遅くとも平安期頃には広域な木島郷が存在し、現代の私たちが暮らす木島校区にその名が残っているという事実があったのですね。 ホンマ、思わぬところから、「目からウロコ」ですわ。 |
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男性
誕生日:
1961/11/30
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会社員
趣味:
バイク、稲作、同窓会のお手伝い
自己紹介:
1977年春に三中卒業後もずっと地元に住み続けています。
3人の愛娘も三中卒業生です。
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