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三中1977年卒同窓会サイトのブログです。
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先日、山手地区公民館で、(知る人ぞ知る?)民の謡代表で篠笛奏者の森田玲氏の講演を聴く機会がありました。
その際に購入した森田氏の著書に古代の岸和田市域についての記述があり、「山直、八木、掃守、木島の四郷にほぼ相当する。」とされていました。

えっ?木島が岸和田の主な郷?
確かに、戦国時代以降は岸和田藩領でしたが、土生郷や麻生郷を押しのけてなぜ木島?
さっそく、森田氏にメールで問い合わせたところ、現木島校区(木島谷)は古代木島郷の一部に過ぎず、大古は現在の土生郷・麻生郷・木島谷の全域が木島郷とされていたそうです。

そういえば、水道路の土生と尾生の境界あたりに数年前まで貝塚市の飛地であった現岸和田市の清児新町があります。
かつて清児の先人が開墾した清児の飛地と聞いていましたが、この清児新町あたりが古代木島郷の北端と考えるとつじつまが合いますねぇ。

その後、貝塚市教育委員会発行の「かいづか文化財だより」に、次の記事を発見しました。
木島谷は古くは木島郷あるいは木島庄と呼ばれていました。
平安時代に作られた『和名類従抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物によると、和泉郡十郷の一つとして、木島郷の名前が見られます。
その範囲は、津田川流域と近木川の上・中流域と海岸部からなり、現在の貝塚市のうち旧木島村・旧麻生郷村に、旧西葛城村の一部であった木積(こつみ)や馬場、三ヶ山(みかやま)といった村々と、現在の岸和田市にある土生(はぶ)・河合におよぶ広大な地域に及んでいました。
森田氏の説を裏付けるもので、妙に納得しました。

私たちが生まれ育った木島谷は、祭祀(森稲荷神社の氏地)や水利(近木川を元にする木島湯)の共同体として、昔から水間・三ツ松・森・名越・清児の五ケ村であるとの先入観を持っていました。
ですが、歴史上の政治的支配の枠組みとして、遅くとも平安期頃には広域な木島郷が存在し、現代の私たちが暮らす木島校区にその名が残っているという事実があったのですね。

ホンマ、思わぬところから、「目からウロコ」ですわ。

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