三中1977年卒同窓会サイトのブログです。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 昨日の宵宮・曳き出しは車で春木年番本部前、午前曳行はバイクで旧市欄干橋、午後は電車で疎開道大手町交差点と、気がつけば1日のうちに3回も地車見物に自宅と岸和田を往復しました。 我ながら何をしているのやら・・・。 今日、本宮は午後から10年ぶりのカンカン場スペシャルシートS席へ。 昔は旧市の知人を通じてチケットを手に入れ、毎年家族連れで見物に行っていましたが、10年前から簡単には本宮夕方のチケットは手に入らなくなってしまいました。 今年は運よく町内の先輩のお誘いがあり、プラチナチケットを分けていただきました。 この時間帯のカンカン場は午後曳行終了予定時刻の午後5時を過ぎてからが見ものです。 各町とも今年最後の遣り回しとばかりに気合の入り方が違います。 日ごろから評判の高い中北町や藤井町、大工町、下野町のほか、並松町や中町もええ遣り回しを見せてくれました。 日も暮れて6時を過ぎ、来年は新調地車で現行地車が最後となる下野町がトリで抜けて行き、交通規制も解除された6時10分頃、帰路につこうとしていた数万人の観客がざわめき始めました。 暗闇の中、和歌山方向から北町の纏が見えたのです! 「えっ!」「うそっ!」「まさか!?」 そんなどよめきがどんどん広がって、カンカン場は異様な雰囲気に包まれます。 現場警察官も再び押し寄せる観客を制止することができません。 夕闇迫る船津橋に北町の地車のシルエットがはっきりと確認できるころには、「うぉー」といううねりのようなどよめきはひときは大きくなり、やがて拍手喝采から大歓迎の手拍子へと変わっていきました。 甲子園球場での逆転サヨナラホームランの歓声にも負けないほどの大歓声を後にして、 夕闇の中、まさに疾風のように今年一番(?)の遣り回しでカンカン場を抜けていったキタンマチ! 「This is 岸和田祭り!!」 しびれた~。ホンマええもん見せてもらいました。 PR
今朝は恒例のウォーキングを中止し、午後から清児青年団がお世話になっている春木八幡町へ。
午後1時30府頃に紀州街道は八幡町の会館前に到着すると、準備万端整って出発時間を今や遅しと待っている状態でした。 各責任者の方々の祭りの始まりが嬉しそうな挨拶が終わると、年番本部前交差点に向けて勢いよく出発、後ろを追いかけました。 昨年からでしたか、諸事情により年番本部前の大阪側から駅方面への遣り回しは禁止。 ちょっと残念ですが、一番の見どころのラパーク前は観客で大混雑しているかと思い、ここに腰を据えて見物させていただきました。 各町二周りほど見物したところで、紀州街道を歩いてひたすら南進。 春木南を越えて、下野町、並松町は菊ヱ門橋を通り過ぎ、北町交差点(通称「小門」)へ。 カンカン場ではアクシデントがあったような情報もありましたが、公称曳行時間を超えても終わる気配がありません。 こちらでも各町二周りほどの見物で、中でも勢いを感じたのが大工町と中北町といったところでしょうか。 最後まで残っていた浜の各町が帰町した午後4時半頃、小門を後にして紀州街道を北に戻りました。 3時間余りの見物でしたが、5~6kmは歩いたかなあ。 立ち詰めや歩くことの疲れよりも、快晴で影が少ない残暑の厳しさが骨身にこたえました。 我々見物人以上に、曳き手はさぞかし楽しくも辛い半日だったことでしょう。 今年はカレンダーのめぐりが悪く、本曳きは2週間後です。 なんか間延びするなあ~。
明日は衆議院議員選挙。
政権交代が争点ですが、前回の郵政選挙の際にも我が社はええように振り回され、今回もし政権交代が実現すれば、またまた組織編成そのものを見直されることになりそうです。 正直なとこ、仕事が政治にかき回されるのはうんざりですわ・・・。 国政選挙・地方選挙にかかわらず、毎回選挙前になると連絡をくれる高校時代のクラブ(放送部)の同級生がいます。 今回も先ほど電話をいただいたのですが、彼女から連絡があるたびに、ほかの部活仲間の近況も聞けて、プチ同窓会気分です。 高校時代を懐かしんで、インターネットを検索していると、「放送コンテスト大阪大会のあゆみ」という第50回NHK杯全国高校放送コンテスト大阪大会の記念誌にヒットしました。 私が貝塚南高校放送部員として参加していた時代は第24~26回大会。 残念ながら私の現役時代は全国大会へは進めませんでしたが、先輩の代ではラジオ番組部門で、後輩の代ではアナウンス部門で全国大会に進出していて、大阪大会では上位校の常連で、大阪府下では少しは名の知れたクラブでした。 前出の記念誌には、大阪府立高等学校視聴覚教育研究会副会長で大阪市立住吉商業高校の石井校長による当時を振り返った記事が掲載されています。 その中で、第25回大会(S53年)頃を放送コンテストが活力を持っていた時代と評されています。 また、当時の大阪大会で毎年活躍する常連放送部18校の中に貝塚南高校放送部をあげていただき、どの放送部もそれぞれ一時代を画した印象深い放送部とコメントされていました。 いやあ、30年以上前のことですが、嬉しいもんですね。 以前にも書き込んだかと思いますが、当時はヤンタン、ヤンリク、オールナイトニッッポンなどのラジオの深夜放送の全盛期、ステレオコンポの音響機器も一大ブームで、私が入部した当時の貝塚南放送部は3学年で50人近い大所帯でした。 ほとんどがアナウンス志望の女子で、私を含めて10人に満たない男子は番組制作や放送機器に携わる技術系中心でした。 実績もある人気クラブでしたから、入部の届け出をしても、即許可が出るわけでなく、先輩との面談でふるいにかけられます。 人材が少ないのに男子には次の2点が条件でした。 部活は毎日フル参加でよほどの事情がないかぎり欠席は認めない。 昼休みも毎日放送があるので食事時間なし(毎日昼食抜き)。 部活は毎日、朝8時15分頃からポールモーリア等のイージーリスニングをBGMに校内の出来事や他のクラブの活躍の模様を伝える「モーニングキャスター」の校内放送で始まります。 昼休みはディスクジョッキーで、音楽ジャンルによって曜日別に番組編成され、生徒からのリクエスト曲も受け付けていました。 放課後は全体での発生練習に始って、その後はアナウンスや技術等の各担当に分かれての活動。 一日の終わりは、17時からの下校放送です。 テスト期間以外は毎日欠かさずこのパターンで、夏休み、春休み、冬休みには、体力づくりのランニングや校外にでかけての生録、ラジオ番組作り等で、学校の開いている日は1年中休みなし。 文化部ですが、体質は体育会系のノリでした。 年間活動の中心にあったのがNHK放送コンテスト出場で、さながら全国大会会場であった東京のNHKホールがこの世界の甲子園みたいなもんでした。私立の強豪校をライバル視したりしてね。 お盆と年末年始くらいかなあ、休みやったのは・・・。 それでも充実した毎日で、ええ思い出です。 今やラジオのDJも死語の世界。 大きなステレオコンポも粗大ごみ。 時代を感じさせますね。 今でも少人数ながら、母校後輩たちは放送部の看板を受け継いでくれているようです。 |
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男性
誕生日:
1961/11/30
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会社員
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バイク、稲作、同窓会のお手伝い
自己紹介:
1977年春に三中卒業後もずっと地元に住み続けています。
3人の愛娘も三中卒業生です。
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